課長家島幸作
この物語は、ある男が人生の中で立ちはだかる不動産売却の難関を乗り越え、栄光をつかみ取るまでを描いた一大叙事詩である。
― ある会社の一室
上司:…つまりだ、ほかでもない君に課長の椅子を用意しているんだがね。
部下:え!?
上司:まだ正式な事例ではないが、そのつもりで仕事に邁進するように。
部下:は、はい!ありがとうございます!
― 朝の電車内
私の名前は「家島幸作(いえしまこうさく)」。つい先日、課長昇格の内定辞令を受け取ったばかりの男が私である。
今朝家を出るとき、わが妻「敬子(けいこ)」にこのことを話そうとしたが、なにぶん家事と子育てにしか興味がないもので、話しても喜ぶとは思えず話すのをやめた。
そもそも、まだ正式な事例が出たわけではない。
今ここではしゃぎすぎてもしこの話がお流れになったらどんなにみっともないことだろう。
そんな私の失態を目のあたりにしたときの妻の冷ややかな嘲笑を思い浮かべると・・・とても話すことははばかられてしまった。
大手電機メーカー営業本部販売助成部宣伝課係長、これが現在の私の肩書である。
しばらくすれば、この肩書の書かれた名刺は跡形もなく捨てられ、新しく課長と印字された名刺が机の上に置かれることだろう。
おっと危ない。おもわず心の中の笑い声が漏れ出してしまったようだ。
目の前のおばあさんの視線が冷たすぎる…。
が、それもなんのその。
なんせ今、私には風が吹いている。
5年前にマイホームも購入、娘「奈実(なみ)」もすくすく育ち、仕事も家庭も順風満帆。
これに加えて課長昇進。これが笑わずにはいられるものか。
はやる気持ちを必死に抑え、いつも通りそつなく仕事をこなし、私は家路を急いだ。
― 夜、家島家のマンション
敬子:あら、私も相談したいことがあったの!
敬子:もう少し広い家にね、引っ越したいのよ!
敬子:奈実が小さい頃はよかったけど、もう小学生になるでしょ。女の子だし自分の部屋も欲しいでしょうし、私も一人になれる部屋が欲しくて。
敬子:家ってね、どんどん価値が下がっていくみたい。うちはマンションだから土地はないわけだし早めに売ってしまって新しいお家に住み替えた方がいいみたいなの。
どうやら敬子の奴、もう引っ越すこと前提じゃないか…
敬子:じゃあ今度の休みにここを買うときにお世話になった不動産屋さんまで行って話を聞きに行きましょう。いい?
あっ、課長昇進の話、自然にスルーされてしまったな…。
不動産屋…。そういえば…ここを買ったときにお世話になったあの子、今も元気に頑張っているのかな。
― 休日、とある不動産会社にて
営業担当:そうですね~。家島様のマンションですと、3000万円で売りに出すのはいかがでしょう?
営業担当:せっかく弊社からご購入いただいた物件でしたので、残念ではあるんですが、精いっぱい高い金額で売れるように頑張らせていただきます!
敬子:ね?だから早く売る方がいいって言ったでしょ?
敬子:よかったわ~。
営業担当:あ~、そんな人もいたらしいですね。僕はこの会社に入ったところ何であまり知らないですけど、なんかウチと合わなくて辞めてしまったみたいですよ。
敬子:あらそうなの…残念ねぇ。
営業担当:まま!今回は僕がばっちり家島様の担当として、3000万円で売ってみせますので、任せてください!
営業担当:ありがとうございます!じゃあ、この専任媒介契約書にサインを…。
突然の話であったが、家を売る準備は出来た。
あとは不動産屋の彼に任せておけば問題ないだろう。
3500万円で買ったマンションが3000万円で売れれば文句はない。
― 1ヶ月後
あれからというもの一向に買い手が見つからず、いたずらに時間だけが過ぎていった。
営業担当からは2度連絡があったが、「なかなか買いたいという人が現れませんね」の一点張りだ。
営業担当:うーん・・・。家島さん、提案なんですけど、値段を下げさせていただくことは可能でしょうか?
営業担当:申し訳ありません。ただ、このままいけばずっと売れず仕舞いでは家島さんも先に進めなくなってしまうと思うのです。2500万円で、値下げチラシをうっていきますので!
― さらに1ヶ月後
営業担当:家島さん、もう最終手段です!2000万円で売り切ってしまいませんか?実はここだけの話、2000万円ならと物件を探していらっしゃる方がいるのですよ。
営業担当:家島さん、家の価格は値引かれてあたりまえです。これで売ることができれば新しいお家へ一歩前進じゃないですか!
― 幸作いきつけのバー「ヤチコ」
最初は3000万円で売れると思っていたのに、今では2000万円で売りましょうと迫られている。
しかし、今の家を売ってしまわないと次の家を購入できないというのもまぎれもない事実だ。
??:あら、家島さんじゃありませんか?
現れたのは先ほどまで訪ねていた不動産会社に在籍していた三軒茶屋久美(さんげんちゃやくみ)さんであった。
私が今の家を購入する際には大変お世話になったものである。
私はこれまでの不動産会社とのやりとりを三軒茶屋さんに伝えた。
家を購入する際にも数々のアドバイスで私を導いてくれた彼女なら何か助言を与えてくれるかもしれない。
三軒茶屋さんは私に一枚の名刺を差し出した。
この再会が私の人生に大きく関わってくることを、私も、そして彼女もまた知る由もなかった。
とにもかくにも、こうして私の家売るオトコとしての壮絶な人生の幕が上がり始めたのである。
もう一度言おう
この物語は、私、家島幸作が人生の中で立ちはだかる不動産売却の難関を乗り越え、栄光をつかみ取るまでを描いた一大叙事詩である。